1 アメリカ文学と孤立主義

IslandをOEDで調べてみると、まず第一に周囲を水に囲まれた土地とある。また、比喩的に、孤立した個人という意味も載せられている。イギリスの詩人のジョン・ダンは、"No man is an island"と表現したが、人は様々な孤立しつつ、様々な関係のなかで生きている。大英帝国勃興期のイギリスで生まれたダンにとって、イギリスという島と世界の関係は、個人と世界の関係に近かったのかもしれない。ダンが没する頃、北米大陸に渡った人々は、やがてアメリカ合衆国をつくり、その勢力範囲を帝国的に拡大していく。19世紀はアメリカ合衆国が、その範囲を最も拡大していった時期である。しかし、興味深いことに、この頃の文学者は孤立主義的なレトリックを駆使している。その様子を詳らかにするため、まず、ラルフ・ウオルドー・エマソン、そしてエドガー・アラン・ポーに焦点をあてて考察した。

エマソンについては、日本アメリカ文学会東京支部で研究発表を発表を行った。(要旨は下欄)

ポーについては、2014年2月に行われた国際ポー学会でポーと孤立主義として発表を行った。この発表に基づいた小エッセイがBaltimore Post-examiner(Online)に掲載された。


 

アメリカ文学会東京支部研究発表要旨

 アメリカン・スタディーズというInterdisciplinaryな学問がアメリカの大学のプログラムに入ってきたのは、新批評の勃興とほぼ時を同じくする。その後のアメリカン・スタディーズの変遷について、冷戦および、アメリカ例外主義の影響などに焦点をあて、Donald E. Pease, John Carlos Rowe, Paul Gilesらが論じてきた。アメリカン・スタディーズは、当初の学際性が時に政治的意図に影響され、文学自体を論じる際に問題も生んだ。こうした問題は、19世紀のトランセンデンタリストが既に抱えていた問題でもあった。Randall FullerEmerson’s Ghosts (2007)で、新しいアメリカン・スタディーズを提唱するに際して、Ralph Waldo Emersonの「アメリカン・スカラー」像がその後の学者たちにあたえた影響を再検証しているのもその証左である。本発表では、出版事情にも注目し、トランセンデンタリストの抱える独自性と国際性、つまり後のアメリカン・スタディーズの問題の一端を再考したい。

 そこでトランセンデンタリストの二面性をエマソンの1840年代の変容を中心にみていきたい。エマソンは、Margaret Fullerらトランセンデンタリストと共に、ネットワークをつくり機関誌『ダイアル』を発行したが、その影響は、当時地域限定的なものと捉えられてきた。しかし、『ダイアル』廃刊後、彼らは地域的な枠を超え、ナショナリズム/反ナショナリズムと立場をかえ、出版地事情の推移とも歩調をあわせるかのように、ナショナルでかつインターナショナルな文学をつくりだした。その過程についてエマソンのレクチャーThe Young American”を中心に考察した。

 アメリカ合衆国が帝国的に拡大していく頃、ニューヨークのナショナリスティックなジャーナリストがYoung America運動を通じて、拡大を後押しするような言説を展開した。これに対し、エマソンは、拡大のレトリックに警戒心をいだき、 "Young American"を改稿している。エマソンのエッセイには孤立を称揚する表現が多く用いられていたが、エマソンの孤立主義にアメリカの帝国的拡大への警鐘をみることも可能であろう。

2 19世紀アメリカ文学と島

メルヴィルの航路 『白鯨』上 八木敏雄訳 岩波文庫、p10—11より、赤字は筆者の加筆
メルヴィルの航路 『白鯨』上 八木敏雄訳 岩波文庫、p10—11より、赤字は筆者の加筆

19世紀のアメリカ文学にみる島の表象

 

序章−—与那国島、近さと遠さ。

 

 日本の最西端に位置する与那国島は、沖縄諸島を南西へと辿った日本領域の最も西にある島だ。与那国のホームページには以下のように書かれている。

 

北緯24°2700”、東経122°5604"
黒潮わきたつ最西端の孤島
石垣島から127km、台湾まで111km。
この島には、黒潮の激流が造り上げたすばらしい自然と
多様な文化が色濃く息づいている。

 

与那国島から他島へ行くとしたら、日本の南に位置する沖縄の石垣島より、台湾の方が近い。この島は、距離的に沖縄、九州より、むしろ台湾に近い位置にある。「かつて、この島と台湾の間には、境はなかった」と岸本葉子は書く(『異国のみえる旅』小学館文庫 p24)。第二次世界大戦をへて中華人民共和国が成立するまで、日本は台湾を植民地として支配していた。したがって、台湾と与那国の間に国境はなかった。人々は、この距離を行き来し、与那国の子供たちのなかには、沖縄本島や九州にではなく、台湾の学校に行くものもいた。台湾は、与那国の生活をささえる生活圏でもあった。しかし、今この二つの島の間には、国境という境ができ、昔のように自由に行き来ができない。近くて遠い関係にある。島国にとって、近郊の島、あるいは、大陸との関係は、その島の存続にとって不可欠のものである。こうした生活圏状の距離を考えると、その距離は決して地理的なものだけで関係の近さを計れるわけではないことが納得できるであろう。つまり、島の生活には、地理的距離より政治的文脈が大きな影響をあたえるのだ。

 そもそも島は、海によって他地域と隔絶した環境にあったところから、独自の文化を生んで行った場所である。ダーウィンがビーグル号に乗って探検したガラパゴス諸島は、その生物の独自さゆえに、後にダーウィンに進化論の論考の根拠を与えることとなる。しかし、島は、島独自では存在しえないのも事実である。ダーウィンによってその名を知られることになったガラパゴス諸島も、他の島、または大陸との関係をもちながら、独自性を持っていった。島がいかなる地域の島または大陸と近しい関係にあるかは、実は物理的なものでは図り得ないものなのではないだろうか。

 19世紀を中心に展開していくこととなったアメリカと海洋諸島の関係にも、当時のアメリカの政治的はあるいは、社会・文化的な要因が大きく働いていると思われる。そこで、島をあつかった小説を分析しつつ、距離に影響をあたえた歴史的事項を参照しつつ、島がどのような位置を持って想像されているかみていきたい。

 

  メルヴィルと島の関係

 捕鯨船の水夫として世界の海を航海したメルヴィルの描く島は、地理的拡がりから考えると、他の19世紀作家を圧倒しているといえる。なかでもその経験は、代表作『白鯨』(1851)を書く際の航路に生かされたといえる。しかし、メルヴィルが実際にアクシュネット号に乗って航海したのは、マーケサス諸島で船をおりるまでであり、『白鯨』のピーコッド号がナンタケットを出航し、アフリカ、インド洋を巡って、太平洋上で難波するのとは異なる。メルヴィル自身が経験した航路と『白鯨』のピーコッド号の航路を重ねると以下のように表すことができよう。(地図は『白鯨』上 八木敏雄訳 岩波文庫、p1011より、赤字は筆者の加筆)

この地図から、メルヴィルは、自分が捕鯨船で旅したことがない航路を、ピーコッド号の航路にしていることがわかる。メルヴィルの経験と創作上の航海の二つを合わせることで、七つの海が結ばれることになる。

 さて、島に焦点をもどし、作品上で描かれた島を整理してみよう。

Typee (1846)  マーケサス諸島 ヌクヒヴァ島

Omoo (1847)  タヒチ

Mardi (1849)  ガラパゴス諸島沖から架空の島へ

Redburn (1849) イングランド、アイルランド沖

Moby-Dick (1851) ナンタケット島から出発

“The Encantadas, or Enchanted Isles” (1854) ガラパゴス諸島

メルヴィルが実際に立ち寄った島が舞台となっているが、奇妙なことにハワイだけが、作品の舞台とはなっていない。ハワイは後にアメリカの准州となり、合衆国の領土となる。逆に言えば、それ以外の島は、アメリカ合衆国の勢力下にならなかった島であり、中南米やヨ−ロッパの国が領有した。

 メルヴィルは、その処女作『タイピー』において宣教師批判をした部分が削除される経験をしている。だとすれば、ハワイの記述はその措置がとられることを予想したとも推測できる。19世紀の太平洋とアメリカ合衆国の関係は、メルヴィルが残した作品の行間から読み取るしか方法はないのであろうか。そこで、行間を辿りつつ、メルヴィルが書かなかったハワイの幻影を捉えていきたい。(続く)

 

 

 

 3 19世紀アメリカ文学にみる動物表象

① 象とアメリカ (19世紀アメリカ文学にみる動物表象 )

 ≪イントロダクション≫

 アメリカの文芸史において19世紀中葉という時代は、F.O. Matthiessenが「アメリカン・ルネサンス」名付けるように、アメリカの文化が独自のものとして花開いた頃である。その一方で、社会も大きく変化し、アメリカは農業国から工業国へと産業の基盤を移行させていく。19世紀中頃を生きる人々は、技術革新にともない、機械化がすすみ、生活圏が広がる。都市部では、もはやかつてのような牧歌的な風景はなくなり、代わって、工場、鉄道、港が整備されていく。ニューヨークのセントラル・パークが整備されるのもこの頃である。セントラル・パークには動物園も作られる。生活の変化にともない、自然から切り離されたと感じる人々が、都市のなかにも自然や野生を求める気持ちは、納得できるものである。  

 また、一方で、西欧諸国の海外進出により、東洋の国の多くは植民地となっていくとともに、その文化が西欧諸国へと伝えられていくことになる。この波の中で、18世紀までイギリス植民地であったアメリカ合衆国は、イギリスからの独立を果たした新しい国家として共和国建設に力をそそいだ。しかし、まもなく、領土拡大と共に、被植民地国から植民地国側の立場をとるようになってくる。19世紀に、アメリカは、南北戦争というアメリカ史上最大の戦死者を出す内戦を経験するが、それだけでなく、メキシコ戦争を嚆矢として、米西戦争も行い、次第に植民地拡大の戦争を行っていく。米西戦争によりアメリカはフィリピンという太平洋への進出拠点を得ることとなる。

 自分を取り巻く社会が世界の動きと共に変っていくことを多くのアメリカ国民は、日常の出来事のなかに感じていたと思われる。アメリカン・ルネサンスという文芸の開花とともに、アメリカ社会は外に向かって大きく変化していく。日常世界を描く小説的発想を起点に、作家の想像力は時代をどのように捉えたか。日常から野生とともに消えつつある動物を通して、かわりゆく時代のあり方をみていく。

《風刺画と象》

 19世紀は雑誌文化が発展した時期でもある。1857年に創刊された『ハーパーズ・ウィークリー』は、挿絵を豊富に掲載した週刊新聞である。ハーパーズ紙の風刺画で注目を集めたものに、風刺画家ナスト(Thomas Nast) が書いたものがある。ナストは、当時ロビイストとして影響力を誇ったTweedを風刺し、虎として描いた。彼の描いた"Tammany Tiger Loose"と題された挿絵は、ローマのコロシアムに放たれた虎が人間に乗りかかって襲っている構図となっている。『ハーパーズ・ウイークリー』の挿絵は、当時の事件にあわせた肖像などが中心であるが、こうした動物を使った挿絵も多々みられた。1874年の11月7日号に掲載された"Third Term Panic"と題された挿絵は、共和党を象に、民主党をろばに喩えた風刺画である。この風刺画は、民主党色の濃い新聞New York Heraldというタグをつけたロバがライオンの毛皮をはおり, New York Timesというタグをつけたユニコーンや他の動物達を威嚇し、その隣では、「共和投票」と胴体に書かれた象が、「インフレ」や「改革」という民主党のしかけたわなを踏んで、南部の要求という落とし穴に落ちようとしているものである( Frank Luterh Mott, A History of American Magazines 1741-1850, Cambridge: Harvard UP, 1966) 。

 この後も共和党を象に擬した挿絵が掲載される。興味深いことに、共和党は現在もシンボルマークに象をつかっている。さて、1884年3月8日には、鞍の下の馬具に「共和党」と書かれた白象がこの号の一面を飾っている。キャプションには、「聖なる象ーこの動物は、純潔と清廉さを保ち、背負う荷物が重すぎなければ、必ずや勝利するであろう」と題され、確かに象の背中には玉座が載せられている。この挿絵に登場する象の図像は、1884年1月26日号の同紙で、同じようなスケッチで登場した象を思い出した当時の読者もいたことだろう。1月26日号で"The Sacred Elephant"と題されたこの象は、興行師として有名なP.T.バーナムがシャムの王に何度も手紙を送り、やっとアメリカにつれてくることが決まったものであった。しかし、シャムで聖なる動物として珍重される白象は、多くのアメリカ人が期待したような純白の象ではなかった。大金をはたいて招致した白象であったが、その白さが逆に失望を持って迎えられることとなった。

 バーナムの象に対する思いは、この時の白象だけでなく、これ以前にも象を招致しようと奔走するほど強いものであった。バーナムは、ロンドンで飼育されていたジャンボと親しまれる象をアメリカに買い取ることに成功し、各地を巡回させていた。この頃、イギリスでもアメリカでも「ジャンボ熱」といわれるほど、この巨大な動物は、人々の注目を集めていたのである(A. H. Saxon, P.T. barnum: The Legend and the Man. New York: Columbia UP, 1989)。

 どちらも大金をつんでアメリカに持ち帰った象であったが、その飼育は困難であったらしく、アメリカに来てまもなく死んでいる。巨大さゆえにコストのかかる象の飼育の結果は、アメリカ英語に1850年代から登場する“white elephant"(無用の長物)という語法そのままともいえる。この語の語源は、シャム王が気に入らない家臣を困らせようと、家臣に莫大な手間のかかる白象を送ったことに由来するともいわれている。Ross Bullenは、1850年代ころからアメリカで、この語法が使われ始めることに注目し、当時のアメリカ合衆国と東洋の専制君主国家シャムとの関係を再考している。論文では、東洋へ目をむけはじめてアメリカが、シャムという東洋の国をどのように捉えたか考察している(Ross Bullen, "This Alarming Generosity": White Elephant and the Logic of the GIft." American Literature,Vol. 83 (2011):747-74)。南北戦争中に、実際あった出来事に、専制君主のシャム王が、民主制のアメリカ合衆国の大統領に白象を贈り物として贈ろうとした。シャムからの贈り物は、アメリカにとっては文字通りwhite elephantであった。アメリカ合衆国とシャムー共にイギリスの支配に屈しなかった共通点を持つものの、その政治体制の違いを浮き彫りにしている。

 いずれにせよ、象という巨大な動物に対する一般の関心の高さは、それを保有し、消費しようとする19世紀後半の消費文化精神、そして次第に強くなる植民地主義が窺えるのではないだろうか。しかし、象がこのように飼いならされたイメージとなるまでには、もう少し歴史を振り返って人間と動物の関係をみていく必要があろう。

 

《メルヴィルと象》

 19世紀の中頃には海洋小説作家として知られていたハーマン・メルヴィルは、40代のころから詩作に転じ、1876年に長編詩『クラレル』を叔父の援助のもと出版する。この作品は、主人公の名がタイトルとなったものだか、アメリカ人神学生のクラレルが信仰の確証を求めて聖地エルサレムへ赴き、そこで様々な人に出会い、困難を乗り越え、巡礼を果たしていくという物語を詩劇のようにしあげた作品である。 

 

    山の街エルサレム

    銃眼の開いた城壁で囲まれた街

    行くてにも後ろにも家はなく

    急勾配の側面に囲まれ

    小塔が並び立つ

    その様子は塔を背負った象を思わせる

     (『クラレル』第一部)

    

 

 

作品の冒頭でエルサレムの地形が描写されるが、その時メルヴィルは、山間の高地が切り開かれたような地形の中心にそそり立つような城壁に囲まれたエルサレムの市街地の様子を、象が塔を背負っている姿として描写する。一見何気ないこの比喩は、エルサレムの地において象を目にすることはまずありえないことを考えると、メルヴィルの脳裏に焼き付いた塔を背負った象の構図がどこからきたものか興味をそそられてもおかしくはなかろう。

 1876年に出版された『クラレル』は、メルヴィル自身が1856年から57年にかけて、ヨーロッパ、地中海地域をめぐり、エルサレムを巡礼した記憶に基づいて書かれたものである。メルヴィルがヨーロッパ地域に行ったのはこれが初めてではなく、船員時代にも寄港していた。作家となってからは、本の出版のためにロンドンまで出かけている。そんな時期である1849年の日記には、英国に行った際に、Elephant and Castle(象と城)という居酒屋兼宿屋に訪れている。

 Elephant and Castleは現在も実際にロンドンにある地名である。この名の正確な由来はわからないが、この地には象が塔を背負ったレプリカが見かけられる。一見オリエンタリズムの象徴とも言えそうなこのイメージはどこからくるのであろうか。ここでメルヴィルが収集した旧約聖書の版画に注目したい。メルヴィルの日記には、「この居酒屋の名は、塔のような輿を背負った象が書かれた看板から、その名をとったと思われる」(Journals 294)と書かれており、メルヴィルの脳裏にこの名は図像と共に残った。というのも、メルヴィルの版画コレクションの中に、マカバイ書の挿絵として輿を背負った象を描いたものがある。オランダの古い聖書の挿絵の中にも、象を描いたものがあり、マカバイ書の一節の挿絵となったいる。この一節では、ユダヤが隣国から軍団を差し向けられたが、その中に象軍団があった顛末が書かれる。象は鎖かたびらがつけられ、その上には櫓が組まれ、そこに武装兵が乗っていた。難攻不落の象軍団であったが、これに対抗したのがエレアザルであった。エレアザルは象の腹側に入り込み、一太刀あびせたが、倒れる象の下敷きとなった息絶えた。メルヴィルが所有しているI Machab. VI, v. 43と題された図案には、その背に載せられたパゴタに多くの兵士が詰め込まれた巨大な象が描かれていた。メルヴィルが立ちよった居酒屋「象と城」の図案は、これを想起させるものであったにちがいない。

 奇しくもメルヴィルは、1856年から57年に出かけた地中海地域旅行の時に、立ち寄ったローマのホテルで、塔を載せた象の彫刻をみかけることになる。メルヴィルが聖地巡礼を終え、南イタリアから北上し、ローマに立ち寄るが、その時宿としたのがミネルヴァホテルであり、このホテルの前のミネルヴァ広場には、バロック彫刻の巨匠ベルニーニの作とされるオベリスクを背負う象の彫刻があった。象と塔とは、メルヴィルの想像力のなかで一体となって印象に残ったと思われる。先のロンドン行きの後に書かれた『白鯨』には、象と塔が一体となったイメージが忘れることなく言及されている。鯨学と名付けられる32章には、大きなこぶのあるザトウ鯨の別称として、Elephant  and Castle Whale(やぐら鯨)が紹介されているのである。

 『白鯨』という作品は、イシュメルという語り手を中心として、モノマニアックな船長エイハブ、友人となる南海出身のクイークエグや様々な人種からなる船員、それらを載せる絶滅したインディアンの部族にちなんでつけられたピーコット号などの様子が書かれる一方、鯨と捕鯨業の様子がくわしく書かれる百科全書的作品といわれている。鯨を征服しようとする人間の営みを通して自然と人間の関係を問い直す手がかりを与えてくれる作品でもある。「マカバイ書」に登場する象軍団は、獰猛で最強のものと描かれる。しかし、これがやがて、旅籠のシンボルとなり、象と塔が一体となって人間世界にとけこんでいるイメージとなるに及んで、人間は動物を自分の世界に一体化することに成功したかに思われる。飼いならされた動物たちにメルヴィルは何をみているのだろうか。19世紀を生き抜いたメルヴィルが到達した地点に位置する『クラレル』の動物表象を手がかりに、自然と人間の関係を考察することできるのではないだろうか。

 

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What's New

島とアメリカ文学  Islands and American Literature

 

 

What's New!

* 2017年度PAMLA学会のセッション「アメリカ文学1865年以前」の司会をしました。(2017年11月11日)。

 

* 2016年度PAMLA学会のSpecial Sessionへのプロポーザル"Literary Property and "Character" in 19th Century  American Culture"が採択され、11月11日にパネルが開かれます。(2016年11月11日)

 

*2014年2月に行われた国際ポー学会の発表をもとにしたエッセイが Baltimore Post-Examinerに掲載されました。 (2015年5月5日)

http://baltimorepostexaminer.com/edgar-allan-poe-and-isolationism-his-mysterious-years-in-new-york/2015/05/05

 

*メルヴィルの動物表象についての論文がPacific Coast Philologyに掲載されています。2015年5月1日(Project Muse: "Rethinking Cultural Awareness Toward Nature: Oriental Animals in Herman Melville's Clarel")

 

*10月19日から21日まで、アメリカ合衆国シアトルで行われるPAMLA学会で"Islands and American Culture”のセッションを担当します。

 

研究成果をアップしました。